神の門が開くとき

ラテン語の「クピードー(Cupido)」を英語読みにした「キューピッド(Cupid)」はローマ神話に登場する愛をつかさどる天使として知られている。
金と鉛の2本の矢を持つクピードーは翼を持っており、天空から人間界を眺めている。
選別される基準は定かではないが、時折、金の矢を放っては愛する2人を結びつけてくれる。反面、鉛の矢を放たれた者たちは生涯にわたり反目する羽目に陥ってしまう。
願わくば、クピードーには意中の人にこそ金の矢を放ってほしいものだが、残念ながらなかなか刺さらないことは誰もが経験しているのではないだろうか。
望み得るのならば、ギリシア神話においてエギナ島の王ベレスを祝う婚礼の席で、争いの女神エリスが投じた「最も美しい人に贈る」と記されている金の林檎を奪いあったギリシア神話中の三美神ヘラ、アテナ、アフロディナのいずれかのような美しい女性に放ってほしいと願っているのだが……。
クピードーが綴られているローマ神話は紀元前754~1453年の古代ローマ時代に語り始められたとされ、ギリシア神話は紀元前15世紀に伝承が始まったとされている。
これら神話と並び、紀元前4~5世紀に綴られ始めたといわれる旧約聖書の創世記11章には「バベルの塔」に関する記述がある。
50代に近い男性は、「バベルの塔」から、主人公のほかロデム、ロプロス、ポセイドンが活躍したアニメ「バビル2世」を思い出したのではないだろうか。
メソポタミア地域で用いられていたアッカド語の「バブ」(門)+「イル」(神)から成る「バベル」は、文字通り「神の門」という意味を有している。
100段もの階段を三方に備えた高層神殿で一説によれば「天空にいる神へと近づくために建造された」ともいわれている。
もちろん、たとえ神に近づけたとしても、人は神になどなれはしないし、なる必要もないだろう。
現在にいたるまで哲学や文学、また美術などの領域においても、神の不在、神の非在が永遠のテーゼとなっている全知全能といわれる神ではあるが、時に残虐な、また時には過酷ともいえる試練の数々を我々人間に与えてきたことは、ノアの箱舟にまつわるエピソードを紐解くだけで十分に知ることが出来るはずである。アメリカ同時多発テロ、東日本大震災、止むことのないテロの連鎖を見れば何をか況んやであろう。
それでもなお、古来より人は課せられし苦難に呻吟し、授けられし試練に耐えかねるあまり神へと祈りを捧げてきた。
だが、その祈るという行為こそが、淡いけれども決して消えることのない夢や希望を心に懐いている、人としての証しなのではないだろうか。
人は生きている限り、全てが順調に行くことなど決して有りえない。困難に巡り合っては挫折し、横臥し、時には突っ伏してしまうかもしれない。
しかし、夢も希望もあきらめない限りは、いつまでもずっと心の中で育むことはできるはずである。
それらを育んでいく過程で、たとえ厳しいまでの苦難や憂苦がついてまわるとしても、 神が行ったような時に残虐な、時に過酷な試練を、共に生きる人へと与えることは、誰にも許されることではない。
もし、この世に「神の門」が存在するならば、「信じる」という思いで培われた、お互いの心が重ね合わさった時に初めて開かれるのではないだろうか。