仏教の胡乱さ

2年ほど前、母がやっと鬼籍に入った。幼少のおりから虐待を受けていたこともあり、心底ホッとしたと同時に、初めて長きにわたる呪縛から解き放たれた思いがした。産んでくれたことに対しては感謝をしてはいるが、親が子を、子が親を選ぶことができないのは、現在でも不条理の極みと思っている。
それはさて措き、「聖書と、それを読み解く個々人の間にのみキリスト教信仰は存在する」という考えに基づき、僕はキリスト教に接している。
もちろん、無神論者も含め、信仰とは各人の心においてのみなされる行為であり、他の宗教を否定するものではない。
いわゆる心に限って言うならば、最近の科学においては見る物、聞く物、感じる物といった全ての事象は脳で関知していることから心=脳というような解釈もされているようだが、一般的に知られる右脳、左脳のほか記憶領域である海馬を始め、小脳、視床下部、頭葉など、脳の様々な機能を司る部分に名称が施されていくように、将来においては心を司る脳の部分が発見され、心脳といった名称がつけられるかもしれない。
これらキリスト教や脳に関する事象より、日本人にとって身近な存在といえるのが、仏教であろう。
しかし、僕は仏教(浅学なため、宗派による違いにまで言及することはできないが)に対し、常々胡乱(うろん=正体が怪しく疑わしい)な印象を懐いている。
母とは異なり、思慕していた祖母の葬儀の際、和尚から「死者は49年かけ、極楽に到達する」といった旨の言葉を聞かされたが、物理的実体として存在していない魂に、果たして現世における時間的制約に類するものが存在するのであろうか。疑問に思った僕は即座に問うたが、満足いく回答が得られることはなかった。
そもそも現世での様々な苦難を乗り越えたはずの魂が何故、死後においまで49年もの長い歳月をかけて極楽までの旅路を進まなければならないのであろう。仏教においては、即座に安らかな眠りを得ることは出来ないのか、疑問を呈さざるを得ない。
初七日、四十九日はもとより、一周忌、三回忌、七回忌、四十九回忌など、死後においても葬祭を繰り返すのは、死者が安らかに極楽へ行く手助けをするためとも言うが、実際は葬祭を商売とする者の詭弁(きべん)に過ぎないのではないだろうか。
またなぜ、お布施によって戒名に差異があるのか〔一説によれば、最高級の戒名を得るには200万円のお布施が必要とも言われている。実際、筆者の知り合いが亡くなった際に葬儀費用は無用とばかり、3万円しかお布施を出さずにいたら戒名の無い白木のままの位牌を渡された経験がある〕。
葬祭会社側に主な問題があるのだろうが、葬儀費用に関する内訳をなぜつまびらかに出来ないのだろう。
さらに言えば、社葬の空々しさは一体何なのだろう。大企業の創業者、社長などの社葬に列席したことがあるが、弔辞という名の下に述べられる言葉は企業PRに過ぎず、最も死を悼んでいるはずの遺族を脇に押しやる様は少なくとも尋常とはいえないだろう。
ブッティストや寺社関係者の方々に教えていただきたい。
なぜ死後においてまで、魂は現世でいう時間に支配されたうえ、49年もの旅路を辿らねばならないのか。なぜお布施によって、戒名がこうも違うのか。親族が葬儀を行った後にも社葬は必要なのか。
ぜひとも教えを乞いたい。