Expliqyer(計算機の使用は禁止)
数年前、フランスの大学入試に関するニュースが話題となったことがある。
フランスでは高校の授業に哲学があり、自著「方法序説」(Discours de la methode)で「我思う、故に我あり(Cogito,ergo sum・コギトー・エルゴー・スム)」という命題を提唱したルネ・デカルトをはじめ、神学者や合理主義哲学者として知られるバールーフ・スピノザなどについて学んでいる。
それら哲学に関する大受験の試験時間が一般の大学で4時間、超エリート大学になると6時間にも及ぶ長時間であることが日本では話題となったのだ。
たしかに日本の入試時間に比べ、1科目としては長時間であることは否めないが、こと哲学という学問についていうなら、たった4時間や6時間で、ある命題に関する答えを導き出すことは容易ではない。
ちなみに、話題となった超エリート大学で出された哲学の入問題は「Expliqyer(説明する)」という一語のみ。そこに「計算機の使用は禁止する」という但し書きが添えられていたという。
「説明する」という単語だけでも、「何を説明するのか?」「説明という行為の意味を説くのか?」などと頭を悩まされるうえに、「なぜあえて、『計算機の使用は禁止する』という一文が添えてあるのか?」、「その一文を『説明する』という解釈の中に取り入れなければならないのか?」など受験生は懊悩したことだろう。
それはさて措き、「我思う、故に我あり」というデカルトのあまりにも有名な命題を引用するまでもなく、哲学や文学では「自我」について盛んに論じられてきた。
たとえば、「きょう、ママンが死んだ」という有名な一文で始まる「異邦人」を著したフランスの作家アルベール・カミュは「シーシュポスの神話」における〔不条理な自由〕の項で「自分の人間としての在り方の他にあるひとつの意味など、ぼくにとってなんの意味があろう」としたためている。
また、ドイツ文学における初期ロマン派のイェーナ時代を飾ったフリードリヒ・シュレーゲルは「哲学の発展 意識の理論としての心理学」第一章〔直観の理論〕において、「思考を重ねる中で我々が全ては我々の中にあるということを否定できないならば、生において我々に間断なく伴っている限定感というものを説明するには、我々が我々自身の一部分に過ぎないのだと仮定するより方法がなくなる」と論じている。
両者ともにいわんとしていることは、自我の追求にあるのだが、一般には青年期に確立するとされる自我を、自らが意識して思索した経験のある人は、少なくともここ日本においては意外なほど少ないのではないだろうか。
もちろん、カミュやシュレーゲルの論を待つまでもなく、全ての人は「自分として本来あるべき姿である自我」を意識したことがあるはずであり、自我を意識しながらも到達できないでいる原自我との葛藤を覚えた経験を有することだろう。
また、時として自我を追求するための原自我になることすらできず、自身の他に位置する世界と接触するためのみの存在ともいえる非我に拘泥されているかもしれない。
ただ、悩ましいことに「自我は同時に汝であり彼であり我々であるようなものなのである」というシュレーゲルの指摘が正鵠を射ているならば、自我、原自我、非我とも、同エリア内にあるといわざるを得ない。
もちろん、これら3者間における距離は意識や思考、理念だけではなく、置かれている環境や立場などによっても変化するのだが、自我の形成という意味においては、これらの3者が同一点上に位置することが最も望ましいといえるだろう。
だが、筆者の場合、自我と原自我の距離が近づくほど、原自我と非我との距離が乖離してしまう。
結果、思索という檻に囚われ、ありもしない理念の上に構築されたMaze(メイズ・迷宮)を彷徨し、漆黒の闇よりも暗い翳に埋もれてしまうのだが、その時にしか垣間見ることのできない自我が存在していることは確かだと感じてもいる。
巷間、食欲、睡眠欲、性欲は三大欲求といわれているが、これらは生物が生きるためのあくまでも生理的な欲求であり、人間だけが持ち得る欲求は知識欲とされている。いわば知識欲を持たず、金銭欲や名誉欲など俗なるものしか持ち得ない者など、下等動物に過ぎないということだ。
残念ながら、ここ日本では哲学に触れる時間は圧倒的に少ないのが現状であり、だからこそフランスでの哲学の試験時間の長さがニュースとなったのだろうが、それを取り上げた者の知的レベルも推して知るべきだろう。
神学で論じられるところの真理が、それぞれの自我に宿っているのならば、筆者の自我における真理は祈りに収れんされるのかもしれない。