最もエレガンスなサイコキラー
今も世界中にリッパロロジスト(切り裂きジャック研究家)と呼ばれる人々がいるように、洋の東西を問わず、これまで刻まれてきた犯罪史にあって、最も多くの民衆を魅了した殺人鬼といえるのが、Jack The Ripper(ジャック・ザ・リッパー=切り裂きジャック)といえるのではないだろうか。筆者が切り裂きジャックに魅かれるのは、世界的にも有名な迷宮事件の犯人であるということもあるが、事件の背景に流れるロマンチックかつエレガントな雰囲気にある(事件の詳細については別の機会に譲るが)。
事件が起こったのが優美なヴィクトリア王朝時代というだけでなく、主な舞台となったのが、ロンドン・イーストエンド地区のホワイトチャペル[和訳すれば『白い教会』といかにもロマンチックな響きを持つが、犯罪者や浮浪者、娼婦などの巣窟(そうくつ)となっていた]エリアと字面だけを見ればロマンチックであり、最初と最後の被害者が共に聖母と同じ名前であるメアリーなど、どこかドラマチックにしてミステリアスな空気に恋い焦がれてしまう。
切り裂きジャックの正体に関しては医師、産婆、弁護士、洋服職人、画家、事件の発見者である運搬人夫のほか、ヴィクトリア女王の孫までが容疑者として浮上したが、裁判にまで持ち込まれた者は1人としていなかったとされている。この世界的にも有名な連続殺人犯の正体に肉薄したのが、『検死官』シリーズなどで知られるアメリカの推理作家パトリシア・コーンウェルである。
パトリシアは自著『切り裂きジャック』において、DNA鑑定を始めとする現在の法医学などを駆使し、ある人物を切り裂きジャックと教唆している。その調査に要した費用は日本円にして7億円を超えるとされ、全てを自費でまかなったパトリシアの熱意には素直に脱帽せざるを得ない。
恐らくパトリシアの指摘は正鵠を射たものであり、もし現在切り裂きジャックが生存していたならば、間違いなく起訴されていたのではないだろうか。まさに見事と言える調査結果であり、その教唆自体に異論を挟むつもりはないのだが、1点だけ承服できないのが切り裂きジャック=サイコパシー(精神病質)説である。
サイコパシーについては、パトリシアだけでなく、アメリカの推理作家たちは連続殺人犯の特質としてこぞって掲げているが、絶対的なデータ数が少ないうえでの推論であることが多いこともあり、とても無条件で承服できるものではない。
さらに言えば、そこには、ある種の人種差別すら感じてしまうのである。
パトリシアなどが掲げるサイコパシーは精神医学用語で「反社会性行動障害」と定義づけされている。
サイコパシーの主な症状としては①盗む、②嘘をつく、③アルコールや薬物といった物質を濫用する、④金銭に関する責任感が無い、⑤退屈に耐えられない、⑥残酷である、⑦家出をする傾向にある、⑧不特定多数と性交渉をもつ、⑨よくケンカをする、⑩悔恨の情に乏しいといったものがある。最大の特徴としては「自責の念・罪悪感ともに無い」とされており、脳機能の中でも、とくに前頭葉の異常が原因とされている。
アメリカでの調査によれば、現在収監されている殺人犯の約50%が前頭葉に何らかの異常が認められており、犯罪者の約25%、全人口の4%が精神病質者とも言われている。
しかし、これらの数値を鵜呑みにすることは危険といえるのではないだろうか。
実際の調査は、収監されている殺人犯などの犯罪者だけを対象としたものであり、まだ罪を犯していない人はその対象とはなっていないからである。
つまり殺人などの罪を犯した者を対象にした限られたデータを示しているに過ぎず、その先の数値(全人口の4%がサイコパシー)は推論の域を出ていない。
では何故、切り裂きジャックの正体を看破したと思われるパトリシア・コーンウェルだけでなく、アメリカの推理作家や精神医学者たちは、サイコパシーという語句を重用するのだろうか。その根底にあるのは、犯罪者ひいては人種差別といえる物ではないかと筆者は考えている。
殺人などの凶悪事案を起こすのはサイコパシーという限られた人種であり、「彼ら彼女たちさえ世間から隔離しさえすれば、凶悪犯罪は起こらない」といった捻じ曲がった理論が垣間見える気がしてならない。
切り裂きジャックの調査に7億円の私財を投じられるパトリシアをはじめとする富裕層にとって、サイコパシーの特徴とされる、盗む=窃盗犯、嘘をつく=詐欺師、アルコールや薬物を濫用する=アルコホリック・ドラック中毒、不特定多数と性交渉を持つ=娼婦といった存在は、忌むべき人種や階級であり、「決して関わりたくない」といった思いが潜んでいるのではないだろうか。
ただし、アメリカにおける、このように犯罪者を差別するかのような思想は、今に始まったものではない。
古くは切り裂きジャック最初の犯罪が発覚する11年前の1877年にリチャード・ダッグティルというアメリカの犯罪学者が「犯罪者には犯罪性ともいうべき因子が備わっており、その因子は遺伝する」という自説を証明するための研究に着手している。
リチャードはジューク一族という犯罪者を多く出している一族をサンプルとして、その家系を125年前の祖先まで遡行。約1,200人のうち、血族540人、婚姻もしくは同居していた者169人をつきとめ、この709人がどのような生活を送っていたかを調べている。
結果、犯罪者77人、娼婦やヒモ的生活を送っていた者202人、乞食や養護施設に入れられた者142人というデータを得ることに成功。トータルすれば421人が何らかの問題を抱えており、そのパーセンテージは子孫の59%、全体(1,200人)の約35%にも及んでいると結論づけている。
サンプルとなったジューク一族は“森の人間
”とも呼ばれ、劣悪な生活環境の中、近親相姦を繰り返していたともされており、この研究結果は、当時「いかにも有り得ること」と思われたという。
しかし、この調査は正確性を著しく欠く物であった。
18世紀当時のアメリカでは官庁や裁判所の記録文書は整備されておらず(記録として残されていなかったため)、他の犯罪学者が異論を唱えたのである。
さらに1907年になり、エスダブルックという学者が同じ調査を行った結果、ジューク一族における犯罪発生率は半減し、リチャードの研究結果は単なる迷信として投げ捨てられている。
それでもなお犯罪者=精神病質者であり、限られた人種とする考え方は、現在でも黒人に対する人種差別が根強く残っているアメリカにおける闇の部分と言えるのではないだろうか。自由の国と称されるアメリカだが、いまだに真の意味での自由など獲得していないのかもしれない。
そんなアメリカの推理作家や精神医学者たちが切り裂きジャックのことを、どうしてもサイコパシーと呼びたいのであれば、せめて「世界で最もエレガンスな」という表記を加えてほしいものである。